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クリスマスイブ。

家族で娘の幼稚園のそばにある教会に行きました。
夜の7時半からクリスマスの礼拝が行われていました。

僕にとって今年のクリスマスは、
いつものクリスマスと少し違った意味があります。

実は、今月初めクリスチャンになるための
洗礼を受けたからです。

みんなに言うと少し驚かれるのですが
自分としては非常に満たされた感じです。

もともと多くの日本人の家庭になるような
神道とも仏教ともどっちつかずな
(おばあちゃんの家には仏壇がありますが)
それでいてクリスマスはプレゼントを買うというような
普通の家庭に生まれました。

でも中学、高校、大学と
もともとプロテスタント系の私立学校に行ってましたから
聖書になじみがなかったわけありません。

それでも学生時代はキリスト教なんて
見向きもしてませんでした。

それがアメリカに来てから
英語の勉強のつもりで
英文の聖書を買ったのをきっかけに
今年の初めからキリスト教に興味が出てきて
娘の幼稚園を経営している教会に顔を出すようになりました。

勧誘なんかも何も受けていないのに
プロテスタント系のその教会の人たちは
嫌な顔もせずに受け入れてくれました。

いろいろ葛藤もありました。
なぜ日本人に生まれて急にキリスト教になるのか。

もちろん、仏教や神道も優れた宗教です。

ただ、戦後日本においては
国家神道の政治利用への反省や
霊感商法だのカルトだのといった新興宗教の極端なイメージ、
果てはキリスト教(ユダヤ教)対イスラム教といった中東情勢などから
宗教に対するイメージが悪くなっていますね。

無神論者という言い方があります。

ですが私は仕事やお金、地位や名誉だけを
信じる生き方は寂しいなと思いました。

もちろん、キリスト教もいろいろな問題があります。

カトリック教会のローマ法王を中心とする権威を批判し
ドイツのマルティン・ルターは
宗教改革を起こしプロテスタントを作りました。

しかしそんなに時代に遡らなくてもいろいろな考え方があります。
原理主義的なものやカルト的なものがあるのも確かです。

だからといって宗教すべて胡散臭し
とするのは性急に過ぎます。

これは私の考え方で
正しいとか間違っているとかいうものではありませんが
私は聖書を文字通り読むのではなく
そこに書かれたスピリットというか精神というものを
大事にして読むべきじゃないかなと思います。

イエス・キリストが
死人を生き返らせたり、
病人を治したり、
目の見えない人を見えるようにしたり、
耳の聞こえない人を聞こえるようにしたりといった
奇跡の話が聖書に随所に出てきます。

僕はそれらを文字通りの意味に取るのではなく
象徴として取るべきじゃないかと思います。

進化論とか天動説とかいう論争が
かつて(今もかも知れませんが)ありましたが
科学対宗教と考えるのは情緒がない。

例えばこういう表現ができます。

僕はクリスチャンになる前まで
目の見えない人であり、耳の聞こえない人でした。

(ここは表現の仕方ですから、文字通りの意味にとって
差別的だというような単純な取りかたをしないでいただければと思います。)

つまり人生の意義というか、
何のために生きるのかということを
知らされていない状態です。

日々の日常の中で少しでも困難に直面すると、
もがき苦しみ、人を呪い、人生を呪い
心の中で、ありとあらゆる悪態をついていました。

新聞を広げると神なんていないと
考えたくなるようなことが毎日にように起きています。

権利関係のライセンスや裁判の仕事をしていると
正義よりも不正義に出会うことの方が多いです。

ちょうど外科医が手術するとき
患者のグロテスクな内臓を見ないといけないように
紛争解決の担当者として普通の人が見ないような
ドロドロの交渉やら裁判の裏側を見ました。

本当は価値のない特許なのに
米国の裁判をチラつかせて
金を脅し取る輩を相手にしていれば
こちらも少々のことでは動じなくなってきます。

そしてどんどん心が硬くなっていって
慣れていくわけです。

もちろん裁判で正義を実現することもできます。
正義の目撃者になることもあります。

しかしそれには膨大な弁護士費用がかかります。

特許裁判では10億円ぐらいかかってもおかしくない。

それだったら少々不服でも和解したほうが安い。

高い正義を買うか、安い不正義を買うか。

不正義を見ていると不正義に慣れてくる。

自分はもともとガサツなほうで
交渉ごとやら人間の心のヒダのことが大好きで
苦にはなりませんでした。

しかし社会人になってからそんな世界に浸かっていると
自分の中に確固とした根本精神のようなもの
安らぎのようなものが欲しくなってきます。

家族だったり、音楽だったり。

でも家族に甘えていると
仕事のストレスとかをもろにぶつけてしまいますし、
音楽にのめりこんでもただの現実逃避だったりします。

高額をもらう弁護士たちは
きちんとしたお金をもらうことで
プロとしての線引きをします。

どれだけドロドロしていても
ビシッと割り切ってプロの仕事をします。

ゴルゴ13やブラック・ジャックのように
高額な報奨金を取ることでプロとして
線引きしているのかも知れません。

日本のサラリーマンではそうもいきません。
そんな心の隙間がありました。

“だから、言っておく。
自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、
また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。
命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。
空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。
だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。
あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。
あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、
寿命をわずかでも延ばすことができようか。
なぜ、衣服のことで思い悩むのか。
野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。
働きもせず、紡ぎもしない。
しかし、言っておく。
栄華を極めたソロモンでさえ、
この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、
神はこのように装ってくださる。
まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。”

このイエス・キリストの言葉に癒されました。

金持ちであれ貧乏人であれ、
健康であれ病人であれ、
有能であれ無能であれ
どの人間も明日何が起きるのかを知らされていません。

神に身を任すほかないのです。

18世紀に奴隷商人をしていた
ジョン・ニュートンが書いた讃美歌があります。

“Amazing Grace”です。



“Amazing grace! how sweet the sound
That saved a wretch like me
I once was lost, but now am found
Was blind, but now I see.”

結婚式でも歌われる歌ですね。

ジョン・ニュートンは
もともとは奴隷商人で黒人奴隷を
冷酷無比に扱っていたそうですが
船長として任された船が嵐に遭い、
今にも海に呑まれそうな船の中で
神に祈り九死に一生を得たそうです。

最後の部分が好きです。

“見えていなかったものが今やっと見える。”



クリスマスとは何か。探し続ける駐在員にあたたかい応援をっ。



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